桜尾城址


厳島神主家・藤原氏の拠る場所で、神領の
中心だった桜尾城320年続いた神主家が
滅びたのち、大内、陶、毛利氏らが相次いで
城番を置いた。(大正2年ごろ撮影)。

廿日市市の東端に位置する、小高い丘の上に整備された桂公園。かつてこの丘に築かれた桜尾城こそ、中世の廿日市の象徴ともいうべき厳島神主家・藤原氏の居城であった。今は桂公園として整備されており、園内の一角に市街地を見下ろすようにして公園碑が建っている。

鎌倉時代、幕府の有力御家人であった藤原親実(ちかざね)が厳島神主職に任命された。城は承久3年(1221)、藤原親実の築城といわれる。以後代々世襲し、天文10年(1541)に藤原興藤(おきふじ)が周防の大内義隆(おおうちよしたか)に攻められて落城するまでの320年余、桜尾城は厳島神領としてこの地方に君臨した。

大内義隆が家臣の陶晴賢(すえはるかた)に謀殺されると、天文23年(1554)に毛利元就が城を攻略して入り、桂元澄(かつらもとずみ)を城主とした。その後弘治元年(1555)、厳島合戦で毛利軍の本陣となり、陶晴賢を敗った毛利元就が凱旋式、晴賢の首実検を行ったのも桜尾城であった。

かつては海に臨んだ要害の地で、天正10年(1582)、毛利輝元が厳島神社の神宝を海賊衆より保護するため、桜尾城内に移した記録がある。さらに同15年には豊臣秀吉が九州出征の途中、桜尾城に着陣したことなどから、当時は立派な構えの城だったと想像される。文献によると本丸、二の丸、東の丸などの郭(くるわ)があったという。

大正元年(1912)、桂元澄の嫡孫である公爵・桂太郎が当時の廿日市町に寄贈して以来、桂公園と呼ばれるようになった。現在、桜やツツジが植樹され、市民らの憩いの場となっている。

スポット情報
所在地: 

廿日市市桜尾本町1-1

お問い合わせ: 

TEL (0829)31-5656
(廿日市市観光協会)

アクセス: 

広電: 山陽女子大前下車、国道2号線方面へ徒歩約13分
バス: 桜尾下車、徒歩約2分

もっと詳しく


桂太郎公爵によって寄贈された
桂公園は、住民の憩いの場として
利用された。
桂太郎は、厳島合戦の前後
十余年間桜尾城主であった
桂元澄の末裔であり、
山県有朋の下で軍制改革を
推進し、明治から大正時代に
かけて3度首相となった
人物である。


昭和42年、桜尾山の老松は切り倒され、
現在のような都市公園に整備された。
石碑以外に昔をしのぶものも無く、桜尾城で
あったことすら忘れられようとしている。
 
 

桜尾城の変遷

  • 承久3年(1221) - 厳島神社神主職に任命された藤原親実により築城。
  • 天文10年(1541) - 藤原興藤が周防の大内義隆に攻められ、落城。 300年余続いた神主家が滅び、大内氏の持城に。
  • 天文23年(1554) - 大内義隆が家臣の陶晴賢に謀殺されると、毛利元就が桜尾城を攻略。桂元澄が城主となる。
  • 弘治元年(1555) - 厳島合戦で毛利元就が陶晴賢を討つ。元就は桜尾城で凱旋式を行い、晴賢の首実検を行った。
  • 天正10年(1582) - 毛利輝元が厳島の宝物を海賊衆から保護するため桜尾城に移す。
  • 天正13年(1585) - 桂元澄の没後、元就の四男・毛利元清が城主となる。
  • 天正15年(1587) - 豊臣秀吉が九州出征に向かう途中、桜尾城に着陣。
  • 関ヶ原の合戦(1600)の後、毛利氏の改易があり、城は廃された。

記載にあたり、以下の文献等を参考にさせていただきました。

『廿日市町史 通史編(上)・(下)』(廿日市町編集・発行)
『廿日市の歴史探訪 1~3』(石田米孝著・渓水社)
『図説 廿日市の歴史』(廿日市市編集・発行)
『廿日市町の文化財』(廿日市市教育委員会編)
『ロマンのこみち』(廿日市市郷土文化研究会発行)

近くのスポット

※()の距離は、上記スポットからの直線距離です。
※半径約5km以内で、距離が近い順に表示しています。