折敷畑の合戦は、廿日市北西部の折敷畑山と
山麓の明石口付近一帯で行われた。
陶軍の将、宮川甲斐守房長は陶軍にあっては
有名な武将で、京都の船岡合戦以来たびたび
大内家で功名を奏した人物であった。
厳島合戦の前哨戦である折敷畑の合戦。弘治元年(1555)6月5日未明の毛利軍の奇襲によって陶軍は総崩れ、宮川甲斐守は瑶池(はるいけ)という駿馬に乗って山路三里を逃げ、末田新右衛門に打たれたという。
腹切岩は後世、宮内五里原辺りの里人が甲斐守の敗死を憐れみ、この岩を腹切岩と呼んだものと思われる。近くには甲斐社という小祠があったが、現在は明石大歳神社に合祠されている。